ホワイトの退団を発表した巨人は、間もなくその後継者として、兼ねてから噂のあった゛大物大リーガー゛レジー・スミスと契約を交わしたことを発表する。 因みに、この事は日本時間で遅くとも82年12月24日には発表されていた事が判明(Suponichi Annexより推定)。従って、ホワイトの退団決定は82年中であったことが確定したが、他の数種の資料も併せて検証し、ホワイト退団後の動きが明らかになった。しかしその件は、次章以降に報告したい。 ![]() さて、このレジー・スミスはホワイトの2歳年下で、リトルリーグおよび高校(Centennial Hight School)の後輩。そして、やはりスウィッチヒッターの外野手である。 ドジャース時代の77、78年、ヤンキースにWシリーズで惜敗しており、何かとホワイトと因縁の多いスミス。その大リーグ17年間の主な成績を比較すると、以下の通りとなる。 スミス ホワイト 試合数 1987 1881 打数 7033 6650 安打数 2020 1803 打率 .287 .271 本塁打 314 160 打点 1092 758 得点 1123 964 盗塁 137 233 四球 890 934 出塁率 .366 .360 両打席HR 7回 5回 AS 出場 7回 2回 GG賞 1回 0回 WS優勝 1回 2回 全体を見渡してみると、スミスが明らかに勝っているのは本塁打数で、ホワイトの約2倍。打点は約1.5倍。逆にホワイトが明らかに勝っているのは盗塁で、スミスの約1.7倍であるが、その他は概ね同程度と考えられ、スミスはホワイトをパワーアップしたタイプと言って良いのかもしれない。 ところで、スミスの巨人入団が決定すると間もなく、様々な雑誌にて彼に関する検証や展望が語られることとなる。私の記憶に残っている記事は2つ。そのひとつ(雑誌名不明)は、スミスが80年頃に利き腕の右肩を手術した既往を危惧する記事であった(当時の日本では、まだスポーツ医学は未熟で、肩にメスを入れるなどはご法度だった?)。 それは、元来強肩で鳴らし、68年にはゴールドグラブ賞も獲得しているスミスだが、今やその肩は使い物にならない。巨人は何故そんな ゛ポンコツ゛を大枚はたいて獲得したのか?という内容であったと記憶する。 そして、前任者?のホワイトのコメントが添えられていたのだった。 ホワイトは、「何だって?オレの後釜が、オレよりたった二つ若いだけで、しかも肩に故障のあるスミスだって?確かにパワーはヤツの方が上かもしれないが、オレにはヤツにはない確実性と、足と、そして何より肩がある!」と語り、憤慨していた様子だったと伝えられていた。 また、その喧嘩っ早い?性格について触れる記事もあり、スミスを良く知る外国人選手が、「レジーだったら、日本で3カ月(1ヶ月?)も耐えられやしない!」のように語られていたものだった。 本塁打を量産する所謂大砲を獲得し、ペナントを何としてでも奪還したい巨人が、「紳士」ホワイトとは対極の?スミスを獲得した事は、過去に「乱暴者はいらん!」と獲得しなかった張本を、結局は入団させたことと同様の事例と言えるかもしれない。 ![]() 巨人とすれば、ホームラン打者ではないホワイトが、36歳の初年度に29本塁打も打ったのだから、2つ若いパワーヒッターのスミスなら40本は打てるかも!肩に故障があるが、ホワイトと同程度と仮定しても、ホームランをガンガン打ってくれりゃーお釣りがくるさ・・・などと考えてもおかしくはないのである。 もう一つ、私の記憶にある記事は、ホワイト来日時にも特集記事を載せた「GORO」だったと思う(第三章参照)。その記事はまず、「ひげ厳禁」の巨人入団で、スミスは自慢の?口ひげを剃るのか?から始まったような気がする。その記事では、当然剃るものと結論付けられ、ひげのない合成写真のスミスが掲載されていたものだった。 さらにその記事は、巨人がスミス獲得のためにどれだけ彼の゛わがまま゛を聞き入れたかについて語られていたのだった。それは以下のような感じだった・・・ スミス「アメリカの家族に、毎日国際電話をかけたいのだが、その電話代はどうなるのか?」 球団側「心配ない。球団がすべて支払うから、君はホームランをたくさん打つことだけを考えてくれればいい」 スミス「やがて子供達と一緒に住むことになるが、わんぱく盛りで部屋のものを壊すことがあるかもしれないが、修理代はどうなるのか?」 球団側「大丈夫だ、すべて球団が支払う。だから君は何も心配せずに、ホームランをたくさん打ってくれればいい・・・」 結局、破格の契約金、年俸を受け取る以外に、わがまま言い放題で、ついに「ひげ剃り」も免除されたレジー・スミス様なのでした・・・・ |
今回は久々の号外を! 私がロイ・ホワイトファンになった「Roots」(その昔、クンタ・キンテで流行語に)とも言えるインタビュー記事を再入手した感激をご報告。 当ブログ第一章の、~ロイとの出会い~で紹介した雑誌記事は、11年前の引越しに伴って多数処分した雑誌中の一冊、日本版Playboy 誌(以下P誌)のものである。 因みに、私が処分した雑誌でホワイトの記事が含まれていたものは、P誌の他にはGORO、Diamondbox、そして、どうしても雑誌名が思い出せないものが1冊の計4冊である。 そして引越しから1年を経過した頃から、久留米の呂井白人(ロイ・ホワイト)ことK.ogawa氏と、ネットを通じた交流を始めて以降、それらの処分を後悔して再入手を決意!長年に渡ってネット検索を続ける日々であった。 検索を始めて間もなく、ネットオークションでGOROを発見!これは表紙に記事のタイトルが大きく書かれているため、気がつくのは容易であった(第二章参照)。 しかしP誌の場合、80年発行は確かであるものの、何月号かを記憶していなかった上、表紙のみでは分からないために捜索は困難を極めていたのだが、やがて意を決し、本年2月22日(因みにネコの日)に東京へ赴き、国会図書館へ、いざ出陣したのである(第八十四章参照)。 ところが残念なことに、製本された80年版のP誌を全て調べてもホワイトの記事は見つからない。大いに落胆する私だが、実は大きな収穫もあった。それは、80年版の中で6月号だけが欠落していたのである。つまり、例の記事は6月号にある!と断定。 東京を後にして帰宅して以降、今度は80年6月号のP誌に絞って検索を試みる。だが、古書店でもオークションでも見つけることが出来ず、再び落ち込む私。 だが諦めずに検索し、様々なサイトを読みまくると、ついにP誌6月号を所持する方のブログ(アメーバ ブログ)を発見! ![]() そのブログタイトルは、「軽井沢不動産屋のブログ」http://ameblo.jp/eiken-karuizawa/。 その主の方は、実際に軽井沢の不動産屋さんである。同ブログでのP誌の話題は、長年に渡り保管されていた多数(大量?)の雑誌類の整理、処分に関する内容。投稿は本年1月になされ、もう処分されてしまったのでは?と半ば諦めていたのだが、ホワイトの記事が同誌に掲載されていた事だけでも確かめようと、言わばダメもとでコメントを送ってみた。 すると、ありがたい事にすぐに返信を頂く。しかもP誌6月号は保管されており、ホワイトの記事の存在も確認。当ブログについて伝えたところ、記事のコピーどころか1冊まるごと無償でいただけることに! 16年間を過ごした信州を去る時に処分した雑誌を、信州在住の方から頂戴するとは摩訶不思議!住所をお伝えすれば即行でP誌が郵送で到着!軽井沢の不動産屋さんに大感謝、そして目がうるうるの私。 ![]() そしてページをめくり、ロイ・ホワイトのインタビュー記事と感激の再会! 目次では、「R・ホワイトは巨人に骨を埋めるのか!?」そして記事の冒頭には「大リーグに見切りをつけた静かなる男 ロイ・ホワイト」の見出しが。 早速内容を確認すると、記憶の範囲で記載した第一章のやり取り以外に、記憶になかったコメントもいくつかあり、新鮮な気持ちで大いに楽しめたのであった。 因みに、第一章の内容は、実際の記事と大筋では一致していると自己満足?大甘の自己採点は70点か?・・・・・・ ところで私が高校生時の、このP誌購入のお目当ては、どうやら過去にP誌を飾った有名上優たちのグラビア特集だったようだ・・・・・ 追伸、国会図書館にてDiamondbox の記事は目出たくコピーをゲット!いずれ報告いたします! |
1982年の公式戦終了後、大方の予想を裏切り?巨人との契約を打ち切られてしまったホワイト。アンチ巨人ながらホワイトの価値を認めてくれた我が父も、その事を知るやいなや「おい、ホワイトはクビだってさ!巨人が優勝してれば残れただろうになあ・・・」と言ってくれたものだった。 先日(2月22日:ネコの日)東京へ赴き、国立国会図書館でホワイトの文献検索に臨んだ私。その際、この契約打ち切り決定の報道がいつであったかは確認出来なかったものの、朝日新聞(しっかりと製本されて感動!)にて、ヤンキースのコーチ就任決定の記事は83年1月8日の紙面に掲載されていることを突き止めた。 巨人が態度を保留していた時期に、ホワイトはヤンキースとの仮契約をしていたという。したがって、コーチ就任発表は巨人退団決定後、間もなくの事であったことが推察される。やはりホワイトの自著に書かれていた通り、長谷川代表への直談判?は、83年に入ってからの事なのかもしれない。 因みに、今回の国会図書館での文献検索は私にとってデビュー戦。勝手が分からず効率が悪かったため、僅かな情報しか得られなかった。いつか必ずや、再調査に挑みたい。 そして、やがてホワイトの後任人事の発表が巨人からなされることとなる。それは、かねてから噂の、レジー・スミス。このスミスは、少年時代にリトルリーグでホワイトのチームメイト。大リーグではドジャースの主砲として活躍し、78年のワールドシリーズでホワイトの在籍するヤンキースと戦っている(ホワイト大活躍でヤ軍優勝!)。 ![]() リトルリーグ時代の写真。左から二人目がホワイト。三人目がスミス。 このスミス入団に関し、当然の如く多くの報道がなされ、雑誌でも特集記事が掲載され、かつてのライバルであり、前任者?となったホワイトからのコメントも見られたのであった。 次章に続く・・・・ |
1982年の公式戦終了後、ロイ・ホワイトの去就に関する報道を待ちわびる私。前年度は、残留決定を日本シリーズ優勝後まで持ち越されたホワイトは、またしても契約更改を保留され、宙ぶらりん の状態となる。 つまり巨人は、他の外国人選手を模索しながらホワイトに待ちぼうけ を食わせたのである。ホワイトは滑り止めか? この年、夏場以降の大活躍によって度々巨人の窮地を救い、「4番を打てる選手を即クビにはできないだろう」、「残留は決定的!」、「夏場以降の活躍が、来年のホワイトを約束した!」、「来季、巨人が優勝を目指すには、ホワイトの存在は絶対必要!」等々、来期契約成立を確実視する数々の意見が聞かれたものだった。 ![]() 夏場からレギュラーに復帰し、やがては四番に定着。持ち前の勝負強さで大活躍のホワイト。表情も非常に明るかった・・・・ しかし、12月に入ってからのことと記憶しているが、とうとう「ホワイト解雇(退団?)」の記事が私の目に入る。その瞬間、体中の力が抜ける私。この衝撃は私にとって、ウルトラマンがゼットンに敗れた時、ジャイアント馬場がB・ブラジルにインターナショナルのベルトを奪われた時、および具志堅用高がペドロ・フローレスに破れ、世界タイトルを失った時に勝るとも劣らない大きなものであった。 ただ、退団決定の時期については、ホワイトの自著によると翌年の83年1月と書かれている。ホワイトが当時の巨人軍球団代表、長谷川氏に会いに行ったところ、ヤンキースからコーチ就任の依頼を受けていることを知った長谷川氏から、再契約をしないことを告げられたと言う。 ただし、その功労を評価するものとして、巨人軍初の外国人OB会員資格と、読売新聞社の特別通信員ならびに巨人軍駐米スカウトの職務を授かったのであった。 一方、ヤンキースでの職務についてはGM就任という噂も流れ、そのことについて聞かれた王助監督は、「心配していたんだが、それは良かった。彼なら立派にやれるだろう」とコメントしていたものだった。 退団後のポストが確約された恵まれた立場ではあったものの、現役続行を強く望んでいたホワイトは、月刊ジャイアンツ誌上でファンへのコメントを寄せている。私の記憶では「巨人在籍中は、温かい応援をありがとうございました。また会える日までサヨウナラ・・・」part2へ続く・・・・ |
82年のシーズン終了後、ホワイトの去就に関する報道を待ちわびる私。その時期に、週刊朝日の連載企画「山藤章二の似顔絵塾」で、ロイ・ホワイトの似顔絵を見つけた私。 ![]() 因みに我が家では、自宅にて朝日新聞と週刊朝日、そして父の職場では日刊スポーツを取っていたのだが、父が持ち帰って来てくれる日刊スポーツのみならず、週刊朝日も私の愛読書?のひとつであった。「似顔絵塾」は、81年から始まったものと記憶している。 さて、そのホワイトの似顔絵はと言うと、左打席でスウィングする特徴的姿ではあるものの、その顔が何故か動物のサイなのである。過去にその口元の特徴から「ドナルドダック」(今ならAKB48とやらのアヒル口か?)や、グラウンドでの働きぶりから「キャメル」の評価があったが、今度はサイざんす? そして、山藤氏による講評が添えられているのだが、絵に対する講評は全く記憶にない(作者様、ごめんなさい)。しかしモデルとなったホワイトへの講評は今でもはっきりと覚えている。それは、以下の通りである。 「・・・それにしても、終盤のホワイトは良く打った。相手チームの投手には、さぞかし憎たらしいサイに見えたことだろう」 どうやら山藤氏にも、ホワイトの大活躍は強烈なイメージを与えたようである。 尚、今回のブログ投稿を前にして古書を検索し、「スーパー源氏」にて「似顔絵塾」の傑作集(82年11月出版)を見つけ購入したところ、残念ながら゛サイ・ホワイト゛は掲載されていなかった。 ![]() しかし、ありがたいことに他の似顔絵が1点、掲載されていたので紹介したい。 ![]() ホワイトの横顔を上手く捉えた作品である。確か、前出のサイ・ホワイトも横顔を描いたものであり、いずれも鼻の形態に特徴を見出していたように思う。 ところで、この作品にもホワイトに対する講評が書かれているのだが、それは私にとって好評ではなかったので、あえて公表しないのであしからず・・・ |
10月15日の対ヤクルト戦に勝利し、翌16日からの対大洋3連戦(横浜)を残すのみとなった中日は、あと2勝もしくは1勝1分けで逆転優勝が達成される状況となる。 その初戦を3-2で勝利した中日陣営は、恐らく想像を絶する疲労とストレスの中にあり、とてもじゃないが翌日の2戦目を捨て試合にして、最終戦に賭ける余裕など無かったであろうことは想像に難くない。出来れば連勝で一気に優勝を決めたかったに違いない。 しかしフランチャイズの横浜大洋は、対巨人最終戦と同様に、シーズン5位らしからぬ?底力を見せ、3-1で勝利する。 フランチャイズの大洋にとって、最終戦まで話題性を繋いだことは、興業的に見て大成功(入場者数、視聴率、etc)とも言える。私が大洋球団社長ならば、最終戦の結果は関係なしに、大洋の選手、首脳陣に特別報酬を約束したことだろう。 因みに、10月18日の最終戦入場者数は3万人。もちろん満員御礼である。 当日、私は大洋の勝利を願ってTVに釘付けとなったことは言うまでもないが、この日の大洋は、全ての巨人ファンを失望させることとなる。 ![]() 巨人にとって、不運とも思える熾烈な首位打者争いであるが、実はそうではないようである。手元の資料によれば、この3連戦に入る前の時点で長崎は.352で打率トップ。そして2位の田尾が.344と8厘差があったのだが、長崎が初戦は代打での1打席のみ、2戦目は欠場する間、田尾が何と2試合で8打数6安打と猛打を振るい、長崎に肉迫したのである。 つまり、田尾がチームの優勝のため、そして首位打者獲得のために全力を尽くした結果が、最終戦で中日に有利な状況をもたらせたとも言えるのである。 最終打席の5打席めには、故意に二度空振りし、せめてもの抵抗?を試みた田尾。優勝の行方が決定する試合で、個人タイトル争いのために関根潤三監督が下した5打席連続敬遠の指令は、当然物議を醸した。 そして試合は8-0の大差がつき、中日先発の小松が完封勝利を収め、リーグ優勝を決める(最後の打者はラムで、空振り三振とのこと)。 ![]() ![]() 試合後のインタビューで両手を挙げる近藤貞夫監督。最後まで優勝を争った、巨人の藤田元司監督と同様、すでに他界されている。 日本シリーズは、10月30日の第6戦を9-4で勝利した西武ライオンズが、対戦成績4勝2敗で日本一をもぎ取る! ![]() 胴上げで宙に舞う広岡達郎監督。 最後の最後の一勝の差で、優勝を惜しくも逃したと言える巨人。それに伴い、ホワイトの去就が心配な私は、その報道を待ちわびることとなる・・・・ |
1982年10月9日の最終戦を落とし、中日とのゲーム差1.5でシーズンを終了した巨人。一方、残り8試合で逆転優勝(5勝3敗or4勝3敗1分で成就)を目指す中日は、10月10日に対ヤクルト戦(名古屋)を4-6で落とすも、翌日の11日に対阪神戦(名古屋)を6-3で勝利して巻き返す。 そして12日の同カードでは5-11と破れるも(阪神は広島との3位争い中!)、13日の対広島戦(名古屋)は4-1と勝利する。 3チームを相手の4連戦を2勝2敗で足踏み?の中日は、中一日おいての4連戦に全てを賭けることとなる。その初戦、神宮球場での対ヤクルト戦を、私は高校時代の同級生(医学部志望のS君)と観戦する。因みにヤクルトはこのシーズン最下位。そして、続く3試合の相手はブービー賞の大洋・・・・・・・・ おそらく球場での観戦を当日に思い立った私達は、夕方に当日売りのチケット売り場の長蛇の列に並ぶ。思えば神宮球場は、私が生まれて初めてプロ野球の試合を観戦した場所である。それは確か小学4年生。当時まだ独身貴族だった叔母(母の妹:現在はご主人と北九州市在住)に連れて行ってもらった、ヤクルト対大洋のダブルヘッダーだった。因みに、スタンドはガラガラだったことは確かである・・・・・ そのダブルヘッダーの試合内容はまったく覚えていないが、高校生くらいの゛お兄さん゛二人が声を合わせての野次、「別当監督、ベッドで寝てろ~!」の妙な面白さと、売店で買ったラーメンの不思議な美味しさが今も記憶に残る私。 話を82年に戻すと、右翼席のチケットを購入した私達。座席は中段あたりで、前方には岡田団長率いるヤクルト私設応援団(ツバメ軍団)が陣取っている。後楽園ではお目にかかれなかった岡田団長は、試合開始が近付くとすっくと立ち上がり、「ハイ、皆さ~ん!今日も宜しくおねがいしま~す!」みたいな感じで応援団員に元気な声をかけ、団員以外からも大歓声と拍手が沸きあがる・・・のだが、 ![]() その直後、団長が突然険しい表情で前方の席に座る男性を指差し、笛を「ピピピピ~ッ!」。皆が目をむけると、その男性は横断幕を拡げているのだが、そこには巨人を応援する文字が書かれているのだった。すると応援団から一斉に「か~えれっ!か~えれっ!」の大合唱。 その男性は、もちろん横断幕をすぐにしまい込んだはずだが、その日超満員の神宮球場には、かなり多くの巨人ファン達が我々と同様「お忍び」でヤクルトの応援に訪れていたことは言うまでもない。 さて、はっきり言って試合の結果だけが全ての私は、その゛経過゛の記憶はまったく無い。唯一思い出されるシーンは、ヤクルトの゛誰かさん゛が打った右翼前安打を、中日の右翼手の゛どなたか゛が後逸し、打球がフェンス際まで転がった事のみである。 それはその試合で、ヤクルト応援団のみならず、多くの ゛忍びの者達゛が最も盛り上がったプレーであると言っても過言ではない。 この試合に関し、手元の資料、ネットなどで得られる情報は、日付け、球場名、そして中日が3-2で勝利したことだけである。巨人以外のチームの当時の詳しい情報を探るのは、なかなか困難なのである・・・・・ ところで、この試合を中日が1点差で勝利していた事は、1~2年前に入手した「週刊プロ野球 セ・パ誕生60年」の1982年版から得た情報だが、意外な接戦であったのだと今にして思う私である。 これで中日の優勝条件は、翌日からの対大洋3連戦で2勝1敗もしくは1勝1敗1分となったのである。 最後に、試合後の出来事で思い出される光景を一つご紹介。 それは、善戦健闘も空しく惜敗したヤクルトの選手に対し、ヤクルト応援団がエールを送った後の事である。岡田団長が「それじゃ~次は、がんばれ中日行きま~す!」と指示を送ると、「お~っ!」と反応する右翼席。 ![]() そして、「がんば~れ!がんば~れ!ちゅ~う~に~ち!」「がんば~れ!がんば~れ!ちゅ~う~に~ち!」の大合唱! すると左翼席の中日応援団から大歓声が沸き起こり、今度はもちろん゛あちら゛から「がんば~れ!がんば~れ!ヤ~ク~ル~ト・・・・」の大合唱! 高校野球の応援さながらのシーンに、心が温まった私である・・・・ 今は亡き岡田正泰団長(2002年7月30日没)に合掌! |
1982年の全日程を終了した巨人。優勝の行方は、その後の中日の成績に委ねられた。 私は神宮球場に足を運び、ヤクルトファンになりすまし?右翼席で観戦することとなる! 都合により、予告のみです。悪しからず m(_ _)m ![]() |
10月5日に巨人が大洋に破れ、二位中日の逆マジックは残り10試合で8となっていたが、その後中日は翌6日にヤクルトに勝利。続く7日には阪神に勝利して逆マジックを6(残り8試合)とし、逆転優勝への望みを繋いていた。 そして向かえた10月9日の巨人最終戦。巨人は、二年連続の20勝&最多勝を目指す、エース江川が先発。そして対する大洋は、゛新エース゛の遠藤一彦。 因みに、この日は終盤戦定番のデーゲームにも関わらず?゛日射病゛(熱中症?)江川が先発し、尚且つ遠藤が得意という、強い風が吹く薄ら寒い日であった。 更に巨人は、主力の中畑、河埜を怪我で欠くというハンデキャップを背負って、「大事な大事な最終戦」を戦うこととなる。 実況アナ(テレビ朝日)の話だったと思うが、王助監督が試合前、前年度に巨人に在籍して引退した大洋の松原コーチを呼び止め、「オイ、松原!今日はウチにとって、どういう試合か分かってるだろうな?」と話しかけ、対する松原は「ウチは全力で戦いますよ!」とやり返したとか・・・・ 因みに、生涯初の3割を目指すホワイトは(前章参照)、10月5日の試合で足踏みし、打率.290でこの日を向かえていた。目標達成のためには、5打数5安打以上を必要とされる極めて厳しい条件であるばかりでなく、うっかりすれば、2割8分台で終わる可能性も秘めていた。 ![]() そしてそのホワイトの第1打席。 初球を見事に捕える! ![]() ![]() 気の合う大リーグ歴14年のラムちゃんと、いつもの打撃談義!打率は.293に! ![]() 手元の資料によると、この試合で先制点(1点)をあげたのは巨人だが、このホワイトの出塁が絡んでいたかどうかは、残念ながら不明である。 その後の試合経過は、四回裏に江川が ゛オバQ゛田代に同点本塁打を浴び、更にはラムちゃんにも本塁打を浴びて1対2と逆転される。 そして五回裏にも、守備の名手山下大輔に1点本塁打を打たれた江川は、西本聖と交代して降板。エースのもう一つの持病「一発病」によって1対3と突き放され、窮地に立たされる巨人。 マウンドに集まる巨人内野陣。怪我で欠場の中畑、河埜の姿は、もちろん見られない。 ![]() ![]() 第二打席で凡退して打率を.292に落とし、3割達成は極めて困難となったホワイトは、三打席目を向かえる。今度は、二遊間を渋く抜く中前打で出塁する。 ![]() ![]() 勝ち越し本塁打のラムちゃんと塁上で再会! 後続の打者は、ホワイトを返せず・・・・ ![]() 1対3のまま八回表を向かえ、一死無走者で第四打席を向かえるホワイト。 ![]() マウンドには、ストッパーの斉藤明夫が立つ。ホワイトは80年に、この斉藤からサヨナラ本塁打を放っているが、82年はこれまで8打数無安打と封じ込められていた。しかし、大事な試合で見事な右前安打を放つ! ![]() ![]() ![]() してやったり!のホワイトの表情が実に良いが、やはりこの出塁を後続が生かせず・・・・ ![]() ![]() ![]() ところでホワイトは、目標の3割達成はならなかったものの、重要な試合で4打数3安打。大リーグ時代のキャリアハイと同じ.296でシーズンを終了したことは、流石!である。 そして、その後の中日の残り8試合の行方や如何に! |
10月5日の対大洋戦に敗れた巨人は(第七十八章参照)、中3日をおいての10月9日に最終戦を向かえる。相手はまたもや大洋。場所を横浜スタジアムに移しての総力戦!と言いたいところだが、何と巨人は主力の中畑と河埜を怪我で欠き、攻撃と守備両面での戦力低下は必至の状態であった。 河埜の怪我の詳細は不明だが、中畑は9月5日の対大洋戦でのものらしい。当ブログで時折エピソードを紹介している我が父(徹底的にアンチ巨人)に言わせると、中畑は「おっちょこちょい!」 その評価の決め手になった出来事も、おそらく81年の怪我であろう。期待のプリンス・原辰徳が入団するもポジションがない。首脳陣苦肉の策が「セカンド原」であった。まだプロでの実績のない ゛グリーンボーイ゛にフィールドから追い出された篠塚は、相当にふて腐れていたことは間違いないが、そんな篠塚の救世主が間もなく現れる。 それが「おっちょこちょい」その人である。試合で骨折?した彼の変わりに「サード原」誕生。そして目出たくお家芸・セカンド篠塚が復帰と相成った。 やがて中畑は復帰するも、彼が古巣に戻ることは許されず?ファーストにコンバート。そして今度はファーストから追い出された山本功が外野に回り、外野手のポジション争いが更に熾烈になったのである。となると、ホワイトも被害者か?・・・ そして時は移り、82年の最終戦。大事な試合で「おっちょこちょい」不在。そして信頼度がかなり高い河埜までもが・・・余談だが、ホワイトの愛息リード君は、良く遊んでくれた河埜の事が大好きだったらしい・・・ ![]() ところで、我がロイ・ホワイトは自身の残留を確定するためにも、巨人を優勝させるべく全力を尽くす事は言うまでもないが、最終戦で心に期するものが他にもあったという。 それは、大リーグ時代に成しえなかった打率3割であった。ホワイトが大リーグ時代に最も3割に接近したのは1970年の.296。前半戦では絶好調で首位打者の時期もあり、オールスターにも選出されて前半戦を折り返したものの、終盤に調子を崩し、3割を下回ってしまったという。 82年のホワイトは、前半戦に出場機会が少なく、先発メンバーに復帰してからも巨人優位で終盤を向かえると、守備固め要員の中井らと交代してお役御免となる事が多く、1試合で4打席を超えることは少なかった。 そのために規定打席には達していなかったのだが、打率3割について「イチ」こと田沼通訳と賭けをしていたという。この田沼通訳との賭けについては、81年にも聞いた記憶があり、もしかすると3年間を通じて行っていたのかもしれない。 因みに賭けの内容は、3割を達成した場合は田沼氏がホワイトに食事をおごり、達成出来なければホワイトが田沼氏に食事をおごる、というものだったという。 もちろん田沼氏は、自分がホワイトにおごる事を待ち望んでいたことは間違えない。 3割と言えば82年の夏場、4番打者としてチームを牽引していた時期に打率3割に到達した時、いつもながら謙虚な言動をするホワイトに対し、「何も遠慮することはない、キミは3割打者なのだから!」とエールを送る記者(評論家だったかな?)の記事を雑誌で読んだ記憶もある。 ・・・とここまで書いたところで、本章はここまでにさせていただきたい。ホワイトの現役最後の試合かと思うと気合いが入りすぎ、前置きが長くなってしまったことをお詫び致します。m(_ _)m |
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